VALUE MANAGEMENT RECRUITMENT
言うだけの人生か、叶えていく人生か。
VALUE MANAGEMENT RECRUITMENT
言うだけの人生か、叶えていく人生か。
あたりには、緊迫した空気が漂っていた。何か厳しい言葉をかけられたわけではない。ただ、無口な田中氏の態度から、こちらに全く気を許してくれていないことが伝わった。水面下で動きつつある、この鮒鶴の事業再生には、名だたる大手企業も名乗りをあげていた。それに比べてバリューマネジメントは、当時ようやく再生事業を手がけはじめたばかり。知名度も実績もゼロに等しい。バリューマネジメントの代表・他力野にできることは、鮒鶴に対する熱い思いを伝えることだけだった。
「私は、この鮒鶴を、残したいと思っています」。田中氏は、黙って聞いている。ここは、正々堂々と攻めるしかない。そう考えた他力野は、大きな夢を語り始めた。鮒鶴を、京都の文化を発信していく場にしたい。地元の人から必要とされる存在になるだけでなく、外から京都エリアに人を誘いこむ呼び水にしたい。例えば京都のギャラリーと組んで、若手のアーティストの作品を展示するのもいい。
経営の観点からも、集客は重要な要素である。他力野は、田中氏もきっとこの提案を喜んでくれると考えた。しかし田中氏の考えは、厳しかった。文化の発信など、そんな大それたことはいい。それより、お前は、この鮒鶴を守れるのか、守れないのか。まずはそこをはっきりさせて欲しい。これは、田中氏の立場と鮒鶴の歴史を考えれば、もっともなことだった。
鮒鶴は、大正14年に料亭として建てられ、創業からは実に140年以上の歴史を持つ。創業者は田中鶴三郎といい、川魚業者として主に鮒を扱っていたことから、「鮒屋の鶴さん」と呼び親しまれていた。これが、鮒鶴の名前の由来だ。当時まだ珍しいエレベーターや、一度に200名もの客を迎えられる大広間を持ち、全盛期には、京都で随一の料亭旅館といわれた。しかし、バブル崩壊後からは徐々に経営に陰りが見えはじめ、かつては斬新といわれた建物も、老朽化が激しく進んでいた。この歴史ある鮒鶴を、田中氏は自分の代で終わらせたくなかった。だが維持だけでも多額の費用がかかるこの建物をいったいどうやって運営していけばよいのか。
立地は、鴨川を望む一等地だ。いっそのこと、潰してマンションにしてしまおうか。それとも、誰かに貸そうか。田中氏は、人知れず葛藤していた。田中氏のまわりには常に、隙あらば資産を乗っ取り、利益を得ようとする者が群がっていた。よくわからない業者に騙され、鮒鶴の名前に傷をつけることなど絶対にできない。警戒心がつよくなるのも、無理なかった。
まずは、鮒鶴を「お預かり」させて欲しいということ。もう一つは、鮒鶴の看板を貸して欲しいということ。バリューマネジメントが経営の実権を握っても、鮒鶴を新しいブランドに変えてしまう気は無かった。‘鮒鶴’として残さなければ、価値がないと思っていた。田中氏とは、さらに書面のやり取りも重ねた。鮒鶴は、その辺の新しい建物とは、勝手が違う。それを本当にわかっているか。覚悟はあるか。膨大な量の確認や調整を通して田中氏は、こちらの本気度を試していたのかもしれない。
そして、最初の出会いから1年が経とうとしていた頃。ついに、バリューマネジメントと契約したいと田中氏からの意思表示があった。ただし「看板は、‘鮒鶴’ではなく‘FUNATSURU’とアルファベット表記にして欲しい」という条件付きだった。もし何かあって‘鮒鶴’の看板が傷つくことがあると二度と取り戻すことができないから、という理由だ。
条件付きではあったが、それでも、事業再生のプロジェクトを担う者として、自分たちバリューマネジメントを選んでくれたことが嬉しかった。
契約当日、田中氏の様子は固かった。「まだ、気持ちでつながることができていない」。他力野は、そう感じた。はやく、人と人の、本物の信頼でつながりたいと思った。
しかし、書面を見ると、契約期間は10年になっていた。契約期間の長さに、信頼はあらわれる。一般的には、この手の契約で10年というのは異例の長さだ。この数字を見て、田中氏がどれほど腹をくくってくれたのかが伝わった。「賭け」に近い覚悟だったにちがいない。こうしてバリューマネジメントは、鮒鶴のこれからの10年間を背負うこととなった。プロジェクトメンバーは、その重みを、ずしりと感じていた。
鮒鶴のような歴史的建造物の修復は、新しい建物とは比較にならないほど手間や工数がかかり、法律上の課題も多い。しかしバリューマネジメントはそれらの課題を、一つひとつクリアしていった。
問題は、京都・木屋町の人たちにとってバリューマネジメントがただの‘よそ者’でしかなかったことだ。京都では、行政から工事の許可が出ても、近隣の住民からの賛同が得られず工事がストップしてしまうことが多々ある。とくにこの木屋町には、昔からの習わしやしきたりがあり、住人には、誇りがあった。ある時、プロジェクトメンバーが颯爽とスーツで風を切って歩いていたところ、近隣の住人から叱責を受けた。「木屋町は、お前らのためのもんと違う。観光に来る人、京都を楽しみに来る人のためにある。なのに、何を偉そうに歩いてはるんや」。確かに、いにしえの趣がある京都のまちで、スーツ姿は完全に浮いていた。
その日から、バリューマネジメントのメンバーたちは、カジュアルな服装でまちを歩くようになった。風情ある小道を、3人横並びで歩くのも、やめた。携帯電話で仕事の話をしながら歩くのも、やめた。とにかく、人としての基本を徹底した。歩いていて、すれちがった人には必ずこちらから挨拶するようにした。鮒鶴の前の通りや、鴨川の掃除もした。だが、そこは生粋の京都である。よかれと思って近所のお店の前を掃除したところ「どうもおおきに。うちのところは汚れていましてね」と言われてしまったメンバーもいた。
そのまちに馴染むには、そのまちのルールを知ることが大切だ。近すぎず遠すぎずの距離感や、さりげない気遣いをときには失敗もしながら、探っていった。工事は順調に進み、2008年5月、鮒鶴は無事に‘FUNATSURU KYOTO KAMOGAWA RESORT’としてオープンを迎えた。
田中氏の息子たちも、親戚も、この鮒鶴で結婚式を挙げてくれた。バリューマネジメントに対してまだ否定的な態度をとる人たちに、「こいつらは、大丈夫や」と言い切ってくれたのも、田中氏だった。田中氏からの力添えもあり、オープンから1年たったころには、木屋町の人たちも、まずまず好意的なスタンスでバリューマネジメントの運営する鮒鶴を受け入れてくれるようになっていた。
信頼関係が深まるにつれ、いつも鋭い目つきだった田中氏が普段はそんなところなど一つもない、おだやかな人であるということも知った。「アルファベット表記ではなくて、もう漢字の‘鮒鶴’にしてくれていい」。とうとうある日、田中氏から正真正銘の‘鮒鶴’の看板を掲げる許しも出た。ようやく、本物の信頼でつながることができた。他力野をはじめとするメンバーは、そう感じた。
しかし、ここからが本当のスタートなのかもしれない。鮒鶴についても、木屋町についても、まだきっと、学ばなければならないことがたくさんある。だからバリューマネジメントはこれからも、人と人の信頼を、紡ぎつづけていく。建物のことだけを考えていても、文化や歴史を残すことはできない。つねに人を敬い、ときには愚直に、地道に、人と、まっすぐ向き合いつづけていく。あたらしい文化を紡ぐのは、いつだって、‘人’なのだ。